2013年2月
― 胃ろうの話 ―
"潮目が変わる"といいます。
例えば「移設問題の対応で潮目が変わった」という新聞記事を見たような気がします。
世間の評価の大勢が(悪いほうへ?)変わった場合に使うようで、医療の世界で潮目が変わったものといえば胃ろうでしょう。
日本老年病医学会が人工栄養を行わない選択肢もありだと立場表明をした前後(2011年12月)から胃ろうの潮目がかわったようで、 単なる延命だといった否定的な論調のマスコミの取り扱いや出版が目立つようになってきました。
専門家がこの点をどう考えているのか知りたくて、2月下旬に金沢で開かれた学会に参加しました(日本静脈経腸栄養学会)。
胃ろうの"ろう"は漢字では"瘻"と書き、身体に異常にできた穴、あるいは人工的に作った穴のことを指します。
胃ろうの何が問題なのか。
意思疎通も満足にできない患者さんに胃ろうを作ることの是非、それが本当に本人が望むことなのか、人間の尊厳に照らしてどうなのか。
これがこの問題の中核です。
学会では"日本の胃ろうを問う"として、大きな会場で2日目の午後全部(4時間)をこの議論に充てるプログラムが組まれ相当な熱気でした。
倫理についての議論なので割り切った答えがでるはずもありません。
でも論点の整理ができて私なりに少しはすっきりしたように思います。
早期の転院を余儀なくされる送り手としての急性期病院と、受け手としての療養施設が要求する栄養管理の省力、利便性という双方の利害の一致で作られる、 つまり転院するために作られる胃ろうはないかとの指摘。
そして"社会的適応"という言葉を安易に使って倫理的判断を回避していないかという反省。
抜き差しならない現状をもっと知りたいと思いましたが、受け手である施設からの発言が少なかったように思われました。
率直に現状を語るのは勇気のいることです。
胃ろうを作って安定している患者さんを持つ家族へのアンケート結果から、胃ろうを作ってよかった思う家族が80%以上。
しかし同じ家族に"あなた自身は胃ろうを作ってほしいか?"という問いに対し、過半数がほしくないと返答したことの真意をどう解釈すべきか。
人工栄養の中止を一律に犯罪とはしないという法整備がないと、医師は安心して"正しい"医療を行えないという声があること。
生活の質をあげるには胃ろうが最善という病気は確かに存在する。
なのに潮目が変わってしまっては、現場で薦めても聞く耳をもってもらえず、みすみす質の劣る栄養補給法が選択されてしまうこと。
それほどにマスコミや活字の影響力は強大であるにもかかわらず、精緻さを欠く報道や論説が存在すること。
歯科医による教育講演で、内視鏡を使って食べ物の飲みこみを観察すると、胃ろうの必要性(不必要性?)を正確に評価できる場合がある。
倫理の議論も大事だが、その前にやることがあるだろう、という目からウロコのお話。
これですべてが解決されるわけではないですが、こういう話を聞くとすっきりします。
医学はこう進むべきです。等々、大変有意義でした。
学会期間に寒波襲来がぶつかりました。
駅前の地下広場を会場のコンサートホールと複数のホテルが取り囲んでいるため、積雪にも関わらず革靴で会場間を行き来できます。
参加者一万人と、国内でも最大級の学会でしたが、円滑な運営に驚きました。
私は、徒歩圏内の実家から除雪されていない細い道を経て会場行く必要から、写真のような靴を履いて上はスーツという変な格好でしたが、これが正解。
気温の低い夜に枝に降り積る雪は幻想的ですが、昼間は溶けて革靴は悲惨なことになります。
(2013年2月 近畿中央胸部疾患センター 院長 林清二)
"潮目が変わる"といいます。
例えば「移設問題の対応で潮目が変わった」という新聞記事を見たような気がします。
世間の評価の大勢が(悪いほうへ?)変わった場合に使うようで、医療の世界で潮目が変わったものといえば胃ろうでしょう。
日本老年病医学会が人工栄養を行わない選択肢もありだと立場表明をした前後(2011年12月)から胃ろうの潮目がかわったようで、 単なる延命だといった否定的な論調のマスコミの取り扱いや出版が目立つようになってきました。
専門家がこの点をどう考えているのか知りたくて、2月下旬に金沢で開かれた学会に参加しました(日本静脈経腸栄養学会)。

胃ろうの"ろう"は漢字では"瘻"と書き、身体に異常にできた穴、あるいは人工的に作った穴のことを指します。
胃ろうの何が問題なのか。
意思疎通も満足にできない患者さんに胃ろうを作ることの是非、それが本当に本人が望むことなのか、人間の尊厳に照らしてどうなのか。
これがこの問題の中核です。
学会では"日本の胃ろうを問う"として、大きな会場で2日目の午後全部(4時間)をこの議論に充てるプログラムが組まれ相当な熱気でした。
倫理についての議論なので割り切った答えがでるはずもありません。
でも論点の整理ができて私なりに少しはすっきりしたように思います。
早期の転院を余儀なくされる送り手としての急性期病院と、受け手としての療養施設が要求する栄養管理の省力、利便性という双方の利害の一致で作られる、 つまり転院するために作られる胃ろうはないかとの指摘。
そして"社会的適応"という言葉を安易に使って倫理的判断を回避していないかという反省。
抜き差しならない現状をもっと知りたいと思いましたが、受け手である施設からの発言が少なかったように思われました。
率直に現状を語るのは勇気のいることです。
胃ろうを作って安定している患者さんを持つ家族へのアンケート結果から、胃ろうを作ってよかった思う家族が80%以上。
しかし同じ家族に"あなた自身は胃ろうを作ってほしいか?"という問いに対し、過半数がほしくないと返答したことの真意をどう解釈すべきか。
人工栄養の中止を一律に犯罪とはしないという法整備がないと、医師は安心して"正しい"医療を行えないという声があること。
生活の質をあげるには胃ろうが最善という病気は確かに存在する。
なのに潮目が変わってしまっては、現場で薦めても聞く耳をもってもらえず、みすみす質の劣る栄養補給法が選択されてしまうこと。
それほどにマスコミや活字の影響力は強大であるにもかかわらず、精緻さを欠く報道や論説が存在すること。
歯科医による教育講演で、内視鏡を使って食べ物の飲みこみを観察すると、胃ろうの必要性(不必要性?)を正確に評価できる場合がある。
倫理の議論も大事だが、その前にやることがあるだろう、という目からウロコのお話。
これですべてが解決されるわけではないですが、こういう話を聞くとすっきりします。
医学はこう進むべきです。等々、大変有意義でした。
学会期間に寒波襲来がぶつかりました。
駅前の地下広場を会場のコンサートホールと複数のホテルが取り囲んでいるため、積雪にも関わらず革靴で会場間を行き来できます。
参加者一万人と、国内でも最大級の学会でしたが、円滑な運営に驚きました。
私は、徒歩圏内の実家から除雪されていない細い道を経て会場行く必要から、写真のような靴を履いて上はスーツという変な格好でしたが、これが正解。
気温の低い夜に枝に降り積る雪は幻想的ですが、昼間は溶けて革靴は悲惨なことになります。


(2013年2月 近畿中央胸部疾患センター 院長 林清二)